アイドルからミュージシャン、そして歌劇女優へ華麗な転身を遂げるも急逝した本田美奈子. の晩年と最期を解説。
この記事では本田美奈子. の晩年と最期について解説していきます。
「本田美奈子」とは?簡単に説明
1985年はアイドル豊作と言われた年にデビューを果たすも、レコード大賞最優秀新人賞は中山美穂が選ばれます。
彼女の名前を一躍広げたのは「1986年のマリリン」で大胆な衣装と振り付けはアイドルからの路線変更とともにミュージシャンへの転身、足掛かりとなるものでした。
ロックバンドを解散後はミュージカル女優として華麗な転身を遂げます。
もともとアイドル時代から質の高い歌声は評価されており、活躍の場を広げていくことになりました。
その後もクラシックアルバムを出すなど活躍の場を広げていきます。
「本田美奈子」の晩年
ミュージカルとともにクラシックの世界に関心を示した彼女はオペラ蝶々夫人の「ある晴れた日に」やイタリアのアンドレア・ボチェッリの「君と旅立とう」を熱唱、次第にクラシックの世界に傾倒していくこととなります。
2003年にはアルバム「AVE MARIA」を発表。
この作品ではクラシックに日本語歌詞をつけて歌いあげ、彼女の今後の方向性と可能性を感じさせた仕上がりになりました。
しかしそんな彼女を病魔が襲います。
「本田美奈子」の死に様
彼女はチャリティーにも力を入れており、AIDS啓発運動にも以前から参加していました。
2004年12月1日に開催された「Act Against AIDS」にも体調不良を押して参加しています。
実は既にこの時病魔に身体を蝕まれており、それ以前から風邪に似た症状の微熱に悩まされていたといいます。
年が開けた05年の体調不良から病院を受診したところ、急性骨髄性白血病の診断がくだり、即入院。
同時に白血病に罹患した事実を公表しています。
予後不良の治療抵抗性の悪性の白血病で骨髄移植が最善策ではあったものの彼女に残された時間は多くはありませんでした。
05年は入退院を繰り返すものの病状は好転せず、11月6日午前4時38分に38歳で永眠しています。
死因は急性骨髄性白血病による合併症によるものでした。
「本田美奈子. 」の死に様の信憑性
骨髄移植をするには時間がなく、臍帯血移植手術は間に合わせにしかならず、2ヶ月後には白血病が再発。
9月には新薬の抗がん剤を試すも効果は得られませんでした。
本人は復帰を信じてドキュメンタリー撮影も許可。
闘病生活の一部始終を隠さずに描いた「天使になった歌姫・本田美奈子. 」が没後一ヶ月後に追悼番組として放送されています。
抗がん剤の副作用で髪が抜けた姿や痩せ衰えた姿が収められているとともに彼女の復帰への執念が描かれたものになりました。
まとめ
本田美奈子. は2005年11月6日に治療抵抗性のある難治性の急性骨髄性白血病の合併症により、38才で永眠しています。
名前の後ろに. をつけ改名したのは画数を1つ増やせば輝ける未来が待つと言われたからでした。
しかしその一年後に病魔に倒れる皮肉な結果となってしまいました。
現在も動画サイトでは大反響を呼んだ彼女の追悼番組・闘病ドキュメンタリーを見ることが可能です。