戦国武将の「立花道雪」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
「立花道雪」のおおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。
「立花道雪」とは?簡単に説明
「立花道雪」は豊後の大友義鑑・大友宗麟(義鎮)の二代にわたって忠義を尽くし、武勇と学問に秀でていた名将です。
出家前の名前は「戸次鑑連(べっきあきつら)」といいます。
九州地方で龍造寺氏・島津氏・秋月氏などと争い、100回を優に超える出陣をして道雪が大将を務めた戦は無敗と伝えられています。
雷を刀で切りつけ下半身付随となったことで「雷神」の異名も持ちます。
毛利元就の九州進出を阻止、龍造寺氏・島津氏などに奪われた筑後の城を取り戻すなどの活躍を見せ、最期は高良山の陣中で病没しました。
「立花道雪」の晩年
「立花道雪」の晩年は、大友氏が島津義久と戦って敗れた「耳川の戦い(1578年)」の後から始まり、最期まで大友氏のために忠義を尽くしながら戦乱に明け暮れるというものでした。
龍造寺隆信が「沖田畷の戦い(1584年)」で討ち死にすると、大友氏と薩摩・島津氏の対立が深まり、道雪は筑後地方の支配権(黒木氏の猫尾城など)を奪還するための戦いを繰り返しました。
道雪の晩年の大きな戦として、天正13年(1585年)の2月から4月にかけての龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂らの連合軍約3万との戦いがあります。
龍造寺家晴が守る難攻不落の水城「柳川城」を攻めている途中の6月に道雪は病気を発病、9月11日に亡くなりました。
「立花道雪」の死に様
「立花道雪」は大友宗麟が島津氏との「耳川の戦い(1578年)」で敗れて情勢不利になってからも、大友氏に忠節を尽くして数多くの戦いで指揮を取りました。
特に肥前の龍造寺氏・薩摩の島津氏との対立が深まりましたが、天然の要害に守護された龍造寺家晴の「柳川城」の攻略に苦戦しました。
天正13年(1585年)6月、柳川城攻撃に時間がかかっている途中、道雪は軍陣を布いていた高良山で病気になってしまいます。
高良山の「高良大社」で病気治癒の祈願をして高橋紹運も看病しましたが、その甲斐もなく道雪は9月11日に病で死去しました。
「立花道雪」の死に様の信憑性
立花道雪は、龍造寺家晴が拠点にしていた柳川城を攻めている途中で何らかの病気を発症して、病気治癒の祈願も虚しく高良山で病没しました。
道雪の死後、大友氏の軍勢が柳川城攻めをやめて撤退していること、高良山の陣中における道雪の遺言が残っていることなどから、天正13年9月11日の病死には信憑性があると言えるでしょう。
道雪の遺言は、「自分が死んだ後、遺体に甲冑を着せ、柳川の方角に向けて高良山の好己の岳に埋めよ」というものでした。
まとめ
「立花道雪」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?
無敵の武将として武名を知られた「立花道雪」は、龍造寺氏の柳川城を攻撃している途中に高良山山中で病気を発症して、天正13年9月に病死しました。
「立花道雪」の死に様について詳しく知りたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。