「鈴木貫太郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「鈴木貫太郎」の死に際とは 歴史上の人物

「鈴木貫太郎(すずきかんたろう)」とは?

鈴木貫太郎の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「鈴木貫太郎」とは?簡単に説明

鈴木貫太郎は軍人・政治家で、太平洋戦争終戦時の内閣総理大臣だったことで有名です。

昭和天皇に最も信頼されていた男と言われ、天皇から内閣総理大臣になることを懇願されます。

これにより、「天皇に唯一お願いされた男」とも言われています。

そして、首相に就任した鈴木は最終的にポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争を終戦に導くという使命をみごと果たします。

「鈴木貫太郎」の晩年

鈴木貫太郎記念館がある千葉県野田市関宿町が鈴木貫太郎の晩年を過ごした地です。

終戦処理の大役を終えた鈴木は幼いころを過ごした関宿町に帰ってきます。

すでに齢80近くであり、二・二六事件で被弾した弾丸数発のうちの一発はまだ体内に残っている状態でした。

しかし年老いていてもとても元気で、天気の良い日はタカ夫人と散歩をしながら近隣の農家の人と話をするのが日課のようでした。

そんな中、鈴木は利根川の堤防に注目し、これを利用できないかと考えます。

やがて関宿で地元の青年24人と農事研究会を発足した鈴木は青年指導を行なうとともに、農家の安定した収入確保のため酪農の必要性を説き、「酪農の町関宿」の基礎を築き上げるのでした。

「鈴木貫太郎」の死に様

鈴木貫太郎は1948年(昭和23年)4月17日、「永遠の平和、永遠の平和」と二度、はっきりした声で語りかけたのを最後に亡くなっています。

いかにも平和を愛した鈴木貫太郎らしい最期の言葉です。

享年81。

死因は肝臓がんでした。

鈴木は二・二六事件で銃撃を受けながらもタカ夫人の機転でかろうじて一命をとりとめた人で、その銃弾のうちの一発は体内に残っていましたが、鈴木の死後に火葬した際、遺骨の中にその一発の弾丸が混ざっていたとのことです。

「鈴木貫太郎」の死に様の信憑性

鈴木貫太郎の晩年の様子は鈴木貫太郎翁邸跡内に野田市教育委員会によって建てられた案内板に記載されていますので、そこから一部抜粋編集しています。

よって、出典など詳細は分かりませんが、信憑性はかなり高いものと思われます。

信憑性を確認するには同町にある「鈴木貫太郎記念館」に訪れるのもよいのではと思いますが、残念ながら同記念館は令和元年の台風の影響などにより臨時休館中のようです。

なお、鈴木貫太郎の妻タカの存在も忘れてはなりません。

鈴木の死後、彼の意志を継いだのはタカ夫人です。

こんな立派な夫人に看取られたはずの鈴木貫太郎の死に様に信憑性がないはずはないと思います。

まとめ

今一つ知名度の低い鈴木貫太郎ですが、改めて調べてみるとその人となりにしろ、その功績にしろ、彼の偉大さを感じざるを得ませんでした。

今の日本があるのは鈴木貫太郎が終戦に導いてくれたおかげといっても過言ではないでしょう。

タイトルとURLをコピーしました