「秋山真之」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「秋山真之」の死に際とは? 歴史上の人物

「秋山真之(あきやまさねゆき)」とは?

秋山真之の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「秋山真之」とは?簡単に説明

司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」の主人公としても有名な秋山真之は大日本帝国海軍の軍人です。

連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦担当参謀となり、日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破る作戦を立て、日本を勝利に導いた人物です。

日本海海戦出撃の際に打った報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は秋山の起草によるもので、驚異的な短文にもかかわらず的確に多くの情報を伝える名文として評価されています。

「秋山真之」の晩年

日露戦争で日本を勝利に導く活躍をした秋山は、その後も第一次世界大戦の戦局を言い当てたりしますが、晩年は目立った活躍はありません。

ただし、晩年の特筆すべき事項として、宗教研究や霊研究に没頭したことが挙げられ、特に大本教への宗教狂いは有名です。

1916年(大正5年)12月14日に大本教幹部と初めて対面して以来、秋山は狂信的な信者となるのです。

1917年(大正6年)5月には虫垂炎(俗にいう盲腸炎)を患ったため箱根で静養しますが、大本教にのめりこんでいた秋山は医師の薬を捨て、手術を拒否して大本教の「鎮魂」と呼ばれる手かざし治療で治そうとします。

さらに夫人の病気も「鎮魂」で治そうとしますが、逆に悪化して夫人は狂乱状態になります。

これに怒った秋山は大本教教団に対して不信を募らせ、教団批判を始めることになります。

「秋山真之」の死に様

秋山真之は1918年(大正7年)2月4日、昨年から患っていた虫垂炎(盲腸炎)が再発・悪化して腹膜炎を併発し、小田原の山下亀三郎別邸である対潮閣で亡くなります。

享年49。

山下汽船(現・商船三井)の創業者である山下亀三郎とは出身が同じ愛媛県だったこともあって親しくしており、よく対潮閣にも訪れていたようです。

この時も対潮閣と同じ小田原市内にある山縣有朋の別邸・古希庵を訪ね、山縣に何か相談していたところ、1月下旬に病状が急変し、2月3日の夜更けには危篤状態になり、翌4日未明逝去したようです。

「秋山真之」の死に様の信憑性

秋山真之は小田原で倒れ、山下亀三郎別宅の対潮閣で亡くなりますが、病状が急変してから亡くなるまで1週間近くあり、その間に医者の治療や身内の者も駆けつけて日夜看病しており、軍部関係者も大勢集まっていたので、死に臨んでの様子は多くの人に克明に記録または記憶されています。

よって、秋山真之の死に様に関する情報は概ね正しく伝わっており、その信憑性は高いと言えます。

まとめ

秋山真之は「名参謀」と言われた天才でしたが、一方で変人と言われるほど奇行が目立つ人でもありました。

身なりは無頓着で、人前で平気に放尿や放屁することもあったとのことです。

なかなか興味深い人物です。

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