「天草四郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「天草四郎」の死に際とは 歴史上の人物

「天草四郎(あまくさしろう)」とは?天草四郎の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「天草四郎」とは?簡単に説明

天草四郎は江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆勢の最高指導者とされています。

本名は益田四郎時貞。

天草四郎率いる一揆勢は原城に立てこもり徹底抗戦、幸運も味方して一度は幕府軍を破るという奇跡を起こすものの、幕府が本格的に討伐部隊を派遣すると原城は陥落し、一揆勢は全滅の憂き目にあうのでした。

この時、天草四郎も戦死してしまいます。

「天草四郎」の晩年

天草四郎は本名益田四郎時貞といい、父は小西行長の家来の益田好次と妻・よねとの子です。

島原の乱の当時は16歳だったとされています。

実は島原の乱が起こる23年前、ママコス神父という宣教師が「これより25年後に神の子がこの地に降り立ち、皆を救う」と予言していました。

そしてこの頃、「海の上を歩いた」「盲目の少女の目を治した」などの奇跡を各地で起こしていたとされる四郎は一揆勢の総大将に祭り上げられます。

やがて一揆勢は島原城や富岡城を攻撃した後、原城に立て籠り、籠城戦となるのです。

幕府側は何度も鎮圧軍を派遣していましたが、ついに総攻撃を開始し激戦の末、原城は落城して四郎も討ち取られます。

「天草四郎」の死に様

幕府軍の総攻撃によって火に包まれた屋敷から出てきた少年(あるいは原城二の丸で鉄砲に当たって倒れていた少年)を熊本藩主・細川忠利の家来である陣佐左衛門が討ち取ります。

これはその後の話ですが、実は幕府軍の誰も首謀者の天草四郎の顔を知らなかったため、四郎の母親に首実検して泣き崩れた首が四郎の首だと考えました。

そしていくつもある少年の首級を母親に見せると、陣佐左衛門が討ち取った首のところで母親が泣き崩れたとのことです。

「天草四郎」の死に様の信憑性

天草四郎の死因ははっきりわかっていないというのが実情です。

しいて言えば「戦死」というのが現状一番信憑性の高い死因ですが、斬り殺されたのか銃殺されたのかも分かりません。

ただ、最も具体的で有力な説が熊本藩主・細川忠利の家来である陣佐左衛門によって討ち取られたとする説です。

また、四郎が起こした奇跡も何の根拠も証拠もありません。

どう考えても天草四郎にカリスマ性を持たせて首謀者として担ぎ上げるための演出としか思えません。

ママコス神父の予言も年がずれています。

よって、予言や超能力のようなものは存在しなかった可能性は高いですが、弱冠16歳という少年を首謀者にしなくてはならなかった、あるいは首謀者にしたかった理由はありそうです。

それがよく巷でいわれている「美少年」というのも一つの説ですがよほどの美少年であればカリスマ性を持たせる意味ではあるかもしれません。

まずありえませんが、四郎が豊臣秀吉の孫、豊臣秀頼の子という説も天下人の名を借りたカリスマ性の演出のためでしょう。

まとめ

四郎の死因(死の様子)が分かっていない以上、生存説も考えられますが、さすがにその可能性はかなり低いでしょう。

いずれにせよ、真実は首実検をした母親だけが知っているということでしょうか。

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