東北の大名「伊達政宗」は伊達男の語源となるほど、粋でお洒落、他者から注目される青年期を送っています。
ではその散り際はいかなるものでしょう?伊達政宗の死に際とは?晩年や最期(死因)などを分かりやすく解釈します。
「伊達政宗」とは?簡単に説明
伊達政宗(だてまさむね)は1567年(永禄10)奥州伊達氏の嫡子として生まれました。
父親は奥州探題伊達輝宗、母親は正室である義姫、羽州探題最上義盛の娘でした。
幼名は梵天丸といいます。
政宗は11歳で元服、父輝宗の隠居により18歳で家督を継ぎました。
継承後は続々と版図を広げ、奥州の3分の1を支配するに至ります。
奥州の覇者となった政宗を、天下統一を目前にした豊臣秀吉が見過ごす筈もなく、東北に惣無事令(私戦禁止令)が出されました。
藤原北家が源流と自称する伊達家は、秀吉の禁止令を無視、勢力拡大を続行します。
政宗は秀吉に表向き恭順の意を示しながら、地盤を固めていきました。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川方に味方します。
戦後は仙台62万石の初代藩主となり、松平姓を与えられました。
その後は農地改革や治水事業など、領国内の安定と拡充に力を尽くしました。
「伊達政宗」の晩年
伊達政宗は仙台藩の内政に尽力する一方で、3代将軍徳川家光に忠義を尽くし、国政に関与していました。
1635年(寛永12)に家光が参勤交代制を発布すると、政宗はいち早くこれを支持します。
政宗が「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たために、諸大名は誰一人異を唱えられなかったと、伝えられます。
家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼び慕いました。
政宗は晩年になると、戦国の合戦話や家康の思い出話などを家光に語って聞かせていたそうです。
「伊達政宗」の死に様
料理家で知られる伊達政宗は健康にも十分配慮した様子が見受けられます。
しかし高齢になると食欲不振、嚥下(飲み下し)が困難になりました。
1634年(寛永11)政宗は死期を悟ったのか、城下の経ヶ峰に「ここに埋葬せよ」と指示し、参勤交代に出発します。
道中も政宗は何も食べられず、激しい嘔吐に苦しんでいました。
江戸到着後、家光は政宗を見舞いますが、既に腹部は大きく腫れあがり、命の終わりを覚悟する姿となっていました。
仙台を出立してから1ヵ月後、政宗は仙台藩江戸屋敷で死去、享年70歳でした。
「伊達政宗」の死に様の信憑性
伊達政宗の死因は癌性腹膜炎と食道癌の合併症と断定されています。
癌性腹膜炎は腹水がたまり、悪心、嘔吐、発熱、呼吸困難などの症状が見られるので、史料にある政宗の症状と合致します。
吉宗の死因は癌性腹膜炎と食道癌の合併症ということでほぼ間違いないでしょう。
-2「伊達政宗」の死がもたらしたもの
伊達政宗の霊廟は仙台市瑞鳳殿にあります。
園内には政宗に殉じて自ら命を絶った家臣たち20名の供養塔が立ち並びます。
徳川家光は政宗の死後、仙台藩に使者を遣わし、殉死を禁じる命令を出しているのですが、家臣たちはこれをかたくなに拒否、敬愛する主君の後を追いました。
まとめ
伊達政宗は病篤き体で、参勤交代を成し遂げ、家光と最期の対面を果たしました。
忠義を尽くして逝く姿は潔く、伊達男と呼ぶに相応しい散り際でした。