「伊達成実」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「伊達成実」の死に際とは 歴史上の人物

独眼竜・伊達政宗の重臣として仕え、「伊達の双璧」「伊達三傑」の1人としても数えられる武将「伊達成実」

後に伊達家から謎の出奔を起こしますが、その後どのような最期を迎えたのでしょうか? この記事では、「伊達成実」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「伊達成実(だて しげざね)」とは?簡単に説明

「伊達成実」とは、「伊達政宗」に仕え、伊達家の分家である亘理(わたり)伊達家の初代当主です。

同じく伊達家重臣の「片倉景綱(かたくら かげつな)」と並べられ、「智の片倉景綱」「武の伊達成実」として「伊達の双璧」と称されています。

また、「鬼庭綱元(おににわ つなもと)」を加えて「伊達三傑」とも称されます。

伊達家臣として武功を重ねていきますが、文禄4年(1595年)に突如として伊達家から出奔します(時期については諸説あり)。

その後、「関ケ原の戦い」の折、重臣たちの説得により帰参したとされています。

「伊達成実」の晩年と最期

徳川幕府が開かれた後は、伊達家の家中の長老として、藩の対外的役割を担いつつ、所領の開発や復興にも努めます。

灌漑(かんがい/農地へ人工的に水を供給すること)設備を充実させ、旧来の用水の改修、及び新たな用水の造設、耕作には適さない沿岸部に塩田(えんでん/大量の海水を蒸発させ、塩だけを取り出すために用いられる場所や施設)を開くなどの政策を推し進めました。

その結果、寛永21年(1644年)の寛永総検知にて算出された所領の貫高は、拝領時のほぼ倍額までに増えていたとされています。

そして、生保3年(1646年)の2月9日に養嗣子の「伊達宗実(だて むねざね)」に家督を譲った後、同年の6月4日に死去します。

享年79年でした。

「伊達成実」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「伊達成実」にまつわるエピソード

最後に「伊達成実」にまつわるエピソードをいくつかご紹介します。

「伊達成実」の兜

「伊達成実」は、毛虫の「決して後ろには退かない」という習性にあやかって、兜に「毛虫」をかたどった前立をつけていました。

「伊達成実」の右手の指

「政宗記」によれば、「人取橋(ひととりばし)の戦い」の後、渋川城に滞在していたときに、仕えていた近習が鉄砲用の火薬箱に誤って火を落としてしまい、城が全焼してしまいます。

この火事により、大やけどを負った「伊達成実」は右手の指が全てくっついてしまい、生涯そのままだったと云われています。

まとめ

「伊達成実」「伊達政宗」に仕え、「武の伊達成実」として「伊達の双璧」「伊達三傑」の1人として数えられています。

一度、伊達家を出奔しますが、「関ケ原の戦い」に際して、伊達家に帰参しました。

徳川幕府が開かれた後は、所領の開発や復興に努め、生保3年(1646年)に家督を養嗣子に譲った後に死去します。

享年79年でした。

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