女性でありながら城主でもあった「井伊直虎」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
「井伊直虎」のおおまかな人生の流れを簡単に紹介して、その晩年・死に様について詳しく解説していきます。
「井伊直虎」とは?簡単に説明
「井伊直虎(いいなおとら,生年不詳-1582年)」とは、女性(異説もあり)でありながら遠江・井伊谷(とおとうみ・いいのや)の城主となり、井伊家を断絶の危機から救ったとされる人物です。
許嫁の井伊直親(なおちか)が主君の今川家から謀反の疑いをかけられ、信濃国に亡命したため、直虎は龍泰寺(後の龍潭寺)で出家して次郎法師(じろうほうし)となりました。
その直親は別の女性と結婚、生まれた男児が虎松(後の徳川四天王になる井伊直政)です。
桶狭間の戦いなどで一族の男が次々と亡くなって井伊家は存続の危機に立たされますが、1565年に還俗して「井伊直虎」と名乗りました。
ここにNHK大河ドラマにもなった「おんな城主・女地頭」の井伊直虎が誕生したのです。
直虎は今川家の「徳政令強制」による家老小野但馬守(小野道好)の反乱などの難題も乗り越え、直親の遺児・虎松(井伊直政)を養子にして見事に育て上げました。
15歳になった直政を徳川家康に仕えさせて、井伊家の存続を確かなものにしたのです。
「井伊直虎」の晩年
「井伊直虎」の後半生は、元許嫁だった井伊直親の息子の虎松を養子にして無事に育てることに費やされました。
虎松の母親が再婚した松下一族の支援を受けられたこともあり、虎松を徳川家康に拝謁させてその臣下である小姓になることができました。
虎松(家康に仕えて万千代と改名)はその後、徳川家康に忠義を尽くして大きな活躍をすることになり、「井伊直政」は「徳川四天王」の一人に数えられました。
直虎の晩年は「政治・戦の争いの世界」から離れて、一族の菩提寺である「龍潭寺」あるいは「自耕庵(後に直虎の菩提寺となる妙雲寺)」で静かに暮らしたとされています。
「井伊直虎」の死に様
「井伊直虎」は「龍潭寺」の松岳院(しょうがくいん)か、後に直虎の菩提寺となる「自耕庵(妙雲寺)」で静かな余生を送りながら、1582年(天正10年)の8月26日に亡くなったと伝えられています。
井伊直虎は戦国時代の人物であり、個人の人生の詳しい履歴などは書き残されていないので、死去した月日は分かりますが、どのような病気や状態で死んだのかまでは分かりません。
ただ波乱万丈の人生を生き抜いて井伊家を守り抜いた直虎の最期は、戦乱で殺されたなどではなく、平時の状態で病気・衰えで亡くなったということは確かでしょう。
生年は不明ですが、父・直盛の生年などから40代で死去したと推測されています。
「井伊直虎」の死に様の信憑性
「井伊直虎」の死に様の信憑性は、「何歳でどのような状態や原因で亡くなったのか」は不明ということになります。
ただし直虎が亡くなった年月日と場所については、天正10年8月26日に、臨済宗妙心寺派の龍潭寺か自耕庵(妙雲寺)で亡くなったことには信憑性があります。
まとめ
「井伊直虎」の大まかな人生の展開と晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?
井伊家の消滅を防いだ女城主の「井伊直虎」は1582年(天正10年)8月26日に、龍潭寺あるいは自耕庵(妙雲寺)で死去しましたが詳しい死因などは不明です。
「井伊直虎」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。